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こどもに学ぶ
ディサースリア
臨床研究会

 わが家に女児が生まれて,18ヶ月が経った.一つ一つの発達を記録してきたが,それらの過程はすべて連続的であった.記録に残されるのは,連続的過程の1コマのすぎない.

 たとえば,はじめて寝返りができた日は私の記録ノートに留められるが,そこにたどりつくまでには,数しれない試行があった.日々,何度も試みようとするのである.そしていったんできるようになると,得意げに,うれしそうに,それを繰り返し,次の課題へと挑もうとする.つかまり立ちも,同様であった.何度も転びながら,立ち上がろうとしつづける毎日がつづいた.そして,いったんできるようになると,今度はつたい歩こうとする.だれも,その行動を止めることはできない.まるで,そうしないではいられない,といった様子である.

 何とこどもは好奇心とチャレンジ精神に富んでいるのであろう.くじける,ということがない.本能的な意欲に駆られて,すさまじい勢いで成長を遂げてゆく.子供の中に誰か強力な支援者がいて,いつも励ましつづけているようにも感じられる.

 また,子供はいつも感動している.外出させると,毎日みなれている花や動物に,指をさして,目を丸くして,はしゃぎながら駆け寄ってゆく.日常を新鮮にとらえつづけるその無邪気な能力,その敏感さに驚かないではいられない.

 こうしたこどものように毎日をすごすことができれば,どんなに人生はすばらしいことだろう.実際に,多くの君子・聖人たちは,幼子のようにいなさい,と諭してきたものである.ところが,この世はままにならない.学生から社会人になると,悩ましい人間関係にうんざり日があるであろう.あるいはクライアントに対して懸命に努力を続けても,自分の力量のなさに失望する日もあるものである.気分がすぐれないときに,赤ん坊は手足をばたつかせて泣き叫ぶことができる.しかし,大人はそうはいかない.だから,人の世に酒場は絶えることがないのか.

 ところが,それでもなお,とあなたの中の誰かがいうであろう.この坂を登りつづけなさい,というであろう.邪気を捨て,喜んで登りつづけなさい,というであろう.

 問題は,赤ん坊のように,その声に耳を貸すことができるかどうか,である.